城クエに登場する会津若松城ってどんなお城?

会津若松城

 

会津若松城

 

東北屈指のユニークな歴史をもつ会津若松城

 

戊辰戦争で有名な会津若松城は別名鶴ヶ城と呼ばれ、地元では親しまれています。会津若松城の歴史は東北屈指のユニークさを誇っています。会津若松城は14世紀に蘆名氏が黒川城として築城しました。次に、1589年に仙台の伊達政宗が蘆名を滅ぼし入城します。直後の1590年には今度は伊勢松坂より蒲生氏郷が73万石で入封します。蒲生氏郷によって城の改修が行われ、本丸には七重の天守が築かれ、豊臣政権の奥州攻略のための拠点が整備されました。また、氏郷はこのとき地名を黒川から若松に変更しています。1598年には越後より120万石で上杉景勝が入封します。景勝は会津若松城から北西3kmの地点に神指城の建設に取りかかり、これが徳川家康の上杉討伐の口実になり、徳川軍が会津討伐へ向かったタイミングで石田三成が挙兵するなど、関ヶ原の戦いのきっかけにもなった。

 

東北にありながら西国風の城郭のワケ

 

会津若松城は東北にありながら、どこか西国の近代城郭を匂わせる作りになっています。その要因は西国から転封された蒲生、加藤といった大名でした。蒲生氏郷時代には、会津若松城の基礎となる本丸、二の丸、三の丸、野面積み石垣などが整備されました。関ヶ原の後、会津に再度入場したのも蒲生氏でした。上杉を米沢30万石に移封し、1601年に蒲生秀行が入場します。1611年の大地震によって崩れた石垣や櫓などはこのときに改修されました。1627年には伊予松山より加藤嘉明が入城します。その子の加藤明成は、防備に弱かった北と西の馬出しを、石垣を使った大規模な出丸に改修。空堀を水堀に変え、天守も七重から五重に変更しました。これによって、会津若松城は現在見られるような姿へと変わりました。このように、会津若松城は東北にありながら築城法に精通する蒲生氏と加藤氏によって作られたので、改修より200年後の戊辰戦争において城の堅固さが実証されました。

 

徳川一族の城として

 

加藤氏の後に会津若松城に入場したのは、二代将軍秀忠の子、保科正之でした。以後松平家が220年に渡って治める徳川一族の領地になりました。この間大規模な改修は行われず、加藤氏が改修した状態で幕末・戊辰戦争を迎えたのです。その際に新政府軍の攻撃を1ヶ月以上に渡って防ぎ続け、建物の焼失もなく、なかなか落城しなかったという堅牢さを見せつけました。明治維新後、建物は全て取り壊され、現在の天守は1965年に復元されたものです。