清洲城の歴史やエピソードを紹介します

清洲城

 

清洲城

 

織田信長の居城、清洲城

 

清洲城は1405年に尾張、遠江、越前の守護であった斯波義重によって築城されました。その後、守護代であった織田氏が居城としていました。この織田氏は後の織田信長につながる一族です。織田信長の父・信秀は古渡城に拠点を移すと、織田信友を城代に任命。元々信長と折り合いの良くなかった信友は信長と手を結んだ織田信光によって殺害され、信長が清洲城に入城します。わずか三千の手勢で二万の今川義元の軍勢をやぶった、かの桶狭間の戦いもこの清洲城より出陣しています。信長は1563年に岐阜の斎藤氏に備えるために小牧山城に移るまで10年間、この清洲城で暮らしていました。

 

歴史の大転換期の中心地・清洲

 

1582年本能寺にて信長が光秀に破れると、秀吉が中国大返しにて畿内に戻り、光秀を討ち果たします。その後の織田家をどうするかを決める会議が行われたのが、この清洲城です。世に言う「清洲会議」が行われました。この清洲会議で羽柴秀吉の天下取りが決定付けられました。そしてこの会議で清洲城は信長の次男・信雄が相続することになり、この信雄は大天守、小天守、書院、二重堀などの改築を行っています。小田原征伐の後、秀吉に逆らった信雄に代わり、甥の豊臣秀次、そして腹心である福島正則の居城となりました。1600年の関ヶ原の戦いのときには東軍の拠点として活用され、その後安芸に移された福島正則に代わって、徳川家康の四男松平忠吉が入城します。その忠吉が病死すると、九男の義直が清洲城に入りました。

 

清洲から名古屋へ

 

1609年、大坂の豊臣家の脅威に備えるため、家康によって清洲城から名古屋城への移築が行われました。その際に清洲城は名古屋城移築の資材としてその多くが利用されます。名古屋城の御深井丸西北隅櫓は清洲城天守の資材を活用して建てられたため、清洲櫓とも呼ばれます。1613年に名古屋城が完成するとともに、清洲城は廃城となりました。現在見ることの出来る天守は1989年に再建された模擬天守です。位置も実際の天守があった場所よりもずれた場所に建てられています。

 

 

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