城クエに登場する松前城について

松前城

 

松前城

 

日本最北、そして最後の近世城郭

 

松前城は北海道に築城された日本最北にある近世城郭です。また、築城されたのは幕末になってから、と最も遅い時代に建てられました。1615年に武家諸法度が公布されてから諸大名が新たに築城工事を行うことはよほどの事情や許可がない限りできなくなりました。当時、蝦夷地の松前藩を治めていた松前氏は特別石高というものはなく、豊富な蝦夷地の産物交易で藩財政をやりくりしていました。大名というのは一万石以上なければ認められないところ、一万石格として、名目上外様大名として認められていただけでした。当然、そんな末席大名がお城を築く身分として認められるわけはなく、お城ではなく福山館という陣所を拠点にしていました。ところが、幕末になり津軽海峡に異国船がしきりに出没するようになると、幕府は海防強化のため、松前崇広を城主大名に格上げし、ペリーが来航する4年前、1849年に築城を命じました。そして1854年に完成するのです。

 

最新の軍学の粋を結集した最新の城郭

 

松前城の縄張りを任されたのは、高崎藩の軍学者市川一学で、長沼流軍学の粋を結集し城作りを手がけました。天守は三重櫓で、石垣は低く、本丸御門は二階の高さを低くし切妻造りとしています。これは厳寒の気候に備えたためで、全国で唯一の例となっています。この門の石垣は精緻な切り込みハギで、ほとんど隙間がない加工度の極めて高いものでした。こうして松前氏は念願の城持大名になることができました。しかし皮肉なことに翌1855年崇広は三万石で福島県梁川へ転封となり、松前の地は幕府の直轄領となってしまったのです。一万石格から三万石への栄転とは言え、さぞ残念だったことでしょう。崇広はその後幕府の老中まで出世し、その実力を中央で発揮しました。

 

机上の軍学だった松前城

 

幕府の直轄領となった松前城でしたが、そのベースとなった軍学は太平の世で練られた、言わば全く実戦経験のないものだったのです。城壁は計算し尽くされた屈曲を造り、枡形も伏兵への工夫がなされ、最新鋭の砲台まで設ける鉄壁さを誇りましたが、裏側においては全く敵の存在を無視した作りになっており、低い石垣と土塀だけで守備されていた裏側を榎本軍に攻められあっけなく落城しています。現在ある建物は1949年に焼失して以後、新たに建てられたものです。

 

 

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